薫風
 ― 自然帰行 からの発信 ―  

 今から10年ほど前、私がある機関紙を創刊した時につけた名前が《薫風》です。
小さな組織の、手作りの数枚にしかならない機関紙だったけど、それなりの思い入れもあり、 そして、なによりもその《薫風》の響きが好きだったことを今思い出しています。
   今、また、ここに《薫風》の名を持ち出して、このホームページから自分に出来ることを、発信してみたいと思っています。
 10年前の気負いは、今は必用なく、このホームページや、くじゅうMLで知り合った友と、自然の素晴らしさや大切さを、 語り合いながら、私達が次の世代になにを残していけるのかをこの場で考えてみたいと思っています。
 意見や気が付いたことがあったら、まったはんの掲示板にどしどし書きこんでください。(むろんダイレクトメールでも構いません。)


1. 『ふたたび天山にて』
2. 『憂』
3. 『会津のブナ林』
4. 『会津のブナ林 伐採計画白紙撤回!』
5. 『生産者の文化と消費者の文化』


蛍と自然

くじゅうで、蛍捜しをしていて、
蛍は非常に人に近いところに生息している、と言う事に改めて気が付きました。

綺麗な川が流れる、山と平野が交わる所、いわゆる里の集落が始まる所が蛍が生息する所です。
そこは、水や自然の恩恵に恵まれ、人間が古代より生活を営んできた場所です。

渓流が、山から平野部に潅ぎこむ時、流れが緩やかになり、川底に砂や土砂が堆積します。
そこには、葦や芹などが茂り、他の水辺の植物や、水生の動物や微生物が生息しています。
そこでの食物連鎖の中で、蛍は種の保存のために、夜の闇の中を交尾の相手を求めて、冷たい光を点滅して飛び交うのです。

そんな蛍の住みやすい清流に必用な条件は
・上流から人間の生活廃水が多量に流れ込まない事。
・水辺の動植物や微生物がダメージを受けるような、農薬に汚染されない事。
・川の底か岸の少なくとも一部が、コンクリートで覆われずに、土の部分が残っている事。
です。

これって、人が自然の中で生きようとした時、最も心地よい環境の条件だと思いませんか?
今、日本の各地で、蛍の再生の活動が行われています。
蛍の再生の活動は、そのまま人が住む自然の再生の活動なのです。

『蛍』について、この『まったはんの掲示板』で多くの人と語り合いたいと思います。
昔の懐かしい話、最近の情報、個人の意見、手伝ってもらいたい事、手伝ってあげたい事、
多くの人からのお話をまっています。
一人でも多くの人に蛍の話に参加して頂く事により、
私の自然帰行が奥の深いものになり、より多くの人の自然帰行に繋がれば幸いです。
そしてその事が、私達が生活していく上で、少しでも自然を守る方向に意識と行動が向くきっかけとなれば、言うことはありません。




森林ボランティア

森林ボランティアは私達に出来る、最も有効な自然保護の活動だと思います。
森を育てることは、単に森を育てるだけでなく、森の持つ保水能力と空気浄化能力を、育てる事だと思います。

今、海の漁師に山の植林のボランティアを行うグループがあるそうです。
海を豊にするためには、海に流れてくる川の水を豊かにする必要があり、
安定した豊かな川の水を得るためには、山の森が豊である事が必用だからです。

日本はこれまで東南アジアや中南米で多くの原生林を切って建材等にしてきました。
木々が行う光合成による2酸化炭素の酸素への還元が、それらの森がなくなることで、
減少するのです。
2酸化炭素の増加が、地球温暖化を進めます。

我々の生活を支える、水と空気 これを守り育むのは豊かな山の森しかないんです。
節約は当然必要です。2酸化炭素等の排出ガスを減らす事も必用です。
そしてそれ以上に、水と空気を守り育てる為に、森を守り育てる事が必用なのです。

森林ボランティアは、私達に出来る、小さな地球保護活動なのです。
一人でも多くの町に住む人が、人手がなくなった山の村に来て、
自然の中で、そんな事を考えながら、植林や、木の手入れを行う。

そう言った事を多くの人に知ってもらいたい。
そう言った事に参加してもらいたい。

今後機会があればみなさんを森林ボランティアに誘います。
その時は みなさん来てくださいね。





炎の揺らぎ

shimadanobunbunさん 今晩は金泉寺山小屋のランプ見ました。

最近 炎の揺らぎを見つめる機会が本当に少なくなってきましたね。
屋外での焼き火の炎、薪ストーブ炎、そしてランプの炎、何れも現在の、
ガスや電気の炎と異なり、不均一な揺らぎがあり、
その不均一な揺らぎに、安らぎを感じますね。

地球の自然自身が不均一な揺らぎそのもので、
揺らぎの個性があるから自然が美しく素晴らしい。

私達は、技術者として、不均一や揺らぎをなくして、
品質の安定を計るよう常に悩んできました。
不均一こそが、「技術」の「敵」で、
技術を完全なものにする為には、不均一をいかに排除するかが
課題だったと思います。

所が、不均一な揺らぎの中にこそ、我々の求める安らぎがある。
皮肉な話ですね。

「技術と自然の調和」と言う事をこれから考えて行く時、
たぶん「不均一な揺らぎをどのように技術の中に取り入れていくか」
と言うことが何らかの形で、係って来るのではないかと思います。

成熟した技術は、自然に近づかざるを得ない。
それは技術が自然と対抗すべきものではなく、
自然と共存すべきものだと思うからです。
私達は地球と言う自然の中でしか生きていけないのですから・・・。

技術屋のはしくれのつぶやきです。





ブナ林

愛林館の館長のHPにまったはんが書き込みした文です。
ちょっと、だらだらとした文ですが、暇な人は読んで見てください。

>ブナは寒い所にしか育たないのでしょうか。

寒い所と言う表現はちょっと違うような気がします。
私の近くでは、背振連山や英彦山にブナ林が見られますし、
その外の山でも標高800m以上の所ではブナの木をしばしば見かけます。
暖かい、寒い以外にも標高がかなりウエイトを占めている様な気がします。

>ブナの伐採が問題になるのは、保水力にすぐれているため? でしょ。
ブナ林のブナの木は1本が田圃1枚の保水力があるとあると、聞いた事があります。
確かに、ブナの木単体では他の広葉樹と大差はないと思いますが、
ブナ林の熟成した多様な生態系の中では、
ブナの木の下の隈笹や多様な潅木と、降り積もったブナの落ち葉が、
山肌に降り注ぐ雨水をゆっくりと地下水として地中に溜め置く事によって、
緩やかなダムの働きをするのだと思います。
成長の遅いブナ林は、ある意味で熟成した多様な生態系を持つ
広葉樹林の象徴と言えると思います。

>ブナを伐採する理由は何なのでしょう。どんな用途があるのかな?

「ぶな」は漢字で、木偏に無という字を用いるように
用材とは言い難い脆弱な材質と木性の悪さから、
「無」の宣告を受けて久しいものとなっています。
建築材ばかりか人里を離れて息づく「ぶな」の木は、
生育環境さえ標高900m帯の高山を選んだことも相まって、
いよいよ人間様とは関わり難い営みを積み重ねて来ました。
これらのことが功を奏して、白神山地の「ぶな」は現存出来た!とも伝えられています。
<shimadaのbunbunさんの談>

今回、当初計画した天然林の伐採については、
水土保全機能を損なわない範囲において、上層木を抜き伐りすることにより、
後継樹の成長促進や、根系・下層植生の発達を促し、
多様な林分構造に誘導することを目標に施業を行うこととしたものです。
<関東森林管理局>

採算的に逼迫する林野行政において、環境に影響のない範囲で、
(必ずしも経済効果の高くない)ブナの木を伐採し、
僅かでも、採算の足しにしたいと言う所でしょう。

でも、なんか違うって気がしませんか?
ブナ林の持つ価値は、単に国土保全のみならず、
その生態系の穏やかさにある様な気がします。
ブナ林を歩いて感じる安らぎは、ブナ林が長い年月を重ねて作り出した
時間と空間が、与えてくれるものです。
ブナ林は、戦後日本が至る所でなくしてきた、私達の心の原風景と同じで
貴重な心安らぐ風景の最後の砦と言えるような空間の一つだと思います。
林野事業の採算を補う為の僅かな経済的価値と引き替えに、
損なうブナ林の(人の心にまで作用する)「環境的な価値は」
あまりに大きすぎるような気がします。
現在残っているブナ林は人の開発が及ばなかった山地ばかりです。
ブナ林の環境を変えることなく、ブナの木の伐採が行えると思いますか?
それは不可能です。
道も作らず、エンジンなどの動力も用いず、人の手のみでそれを行うのなら
可能でしょうが・・・。

現在社会において、農林業は経済効率が劣悪なのは事実です。
そして経済効率が劣悪な所において、「豊な環境的な価値」は保たれています。
「豊な環境的な価値」を「劣悪な経済効率」で維持している事に今の社会の
構造的な問題があるような気がします。

環境を汚染する側には、それを抑制する様に色々な対策を行い、
その為の負担も理解される様になってきました。
でも、今ある「豊な環境的な価値」を維持する為の、社会的な負担は
まだまだ理解されているとは言いがたいようです。

ブナ林を美しく素晴らしいと思う感性を持っている人は、最もブナ林から
「豊な環境的な価値」を頂いているわけで、その為の負担を支払うべきだと思います。
そう言う感性がない人も、知らない所で「豊な環境的な価値」の御世話になっているわけで、
みんながその事を理解する様になれば、私達の大切な財産である「豊な環境的な価値」
の為の負担が、農林業者のみに偏る事が軽減されると思います。

かく言う私も、館長の考え方や行動に、大いに共感する所があるといいながら、
今だ館長の御手伝いさえした事がありません。
館長 ゴメンナサイ!
機会があれば一度是非御邪魔したいと思っているのですが・・・。

今日は長々とスペースを取って申し訳ありませんでした。
最後までちゃんと読んでくれた人、御疲れ様でした。
そして、有り難うございました。

オヤスミナサイ





情報化社会と自然環境

このHPの『少年だった頃の思い出』の中で『蛍』というページがありますが、
佐賀の小城に、蛍の名所である、天山から流れる祇園川があります。
この季節、この川の周辺には、何人もの警備員や、観察指導員が出て、
多くの人と車の流れを、管理しないといけないくらい人間が蛍を見に来ます。
所が、天山から流れる川にも、源氏蛍の乱舞が見られるというのに、
ここを訪れる人は多くはありません。

蛍が生息し自然豊な環境をアピールして、多くの人に来てもらう事に反対はありません。
その事により、環境保護の意識が浸透するのであれば大賛成です。
でも、豊な自然は、マスコミによって伝えられる所以外にもモッといっぱいあります。
そう言った豊な自然を自分の感覚で見つけ出し、
それらを皆で守り育てて行く事が大切な事だと思います。
貴重な昔のままの自然を、貴重と思える感覚こそが大切で、そう言う感覚の積み重ねが
本当の環境保護に結びつくのだと思います。

マスコミの伝える美しい自然環境に私達が殺到する事は、ある意味で、
自然破壊の行為そのものになり兼ねないのです。
昨日 長者原−雨が池−坊がつる−大戸越−平治−大戸越−大船−段原−風穴−ソババッケ−
男池とかなりの距離を歩いてきました。

そこで見たミヤマキリシマはかなりひどい虫害で、一部冬枯れを思わせる光景が見られました。
虫害がひどいのは、平治の頂上から先、平治から大船へのメインの縦走路。
何れもミヤマキリシマが見事で、最も多くの人達が訪れた場所です。

これらの場所で「もったいない、なんとかならないか?」と言う声を多く耳にしましたが、
何故、勿体ないのか?
何を、何から守るべきなのか?
考えさせられる物がありました。

私の意見
守るべきものは、自然環境全体であり、そこに生息する生物の生態系そのものだと思います。
人間が、自然の持つ時間による治癒を無視して、その時点での断片的な保護を行うことこそ、
環境と生態系の破壊に成りかねないと思うのですが、いかがでしょうか?

虫害は人間が招いたと言う説もあるようですが、現代社会ではマスコミやインターネットによる情報で、
多くの人が同じ行動をすると言う現象があります。
平治や大船のミヤマキリシマはあまりに有名になり、そして中高年の登山ブームが、
平治や、大船のメインルートを以前より多くの人に身近なものにしたのでしょう。
その事が今回の虫害と関係あるかどうかは別としても、
多くの人間が、自然の生態系の中に集中的に集合すると言うことは、
考え直す必要がありそうです。

私達の社会は、高度成長経済に時代引き起こした、公害と言う負の環境財産には、
それなりの負担を負うと言うシステムが出来ています。

でも、豊な自然環境と言う正の環境財産を守っていくために、私達一人一人が
負担を負うと言うシステムまだまだ不充分です。
この事についてこそ、マスコミ等に携わっている方々にモッと触れてもらいたいのですが・・・。





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