憂
H.Oさんからのメールより
先日、1年ぶりで背振のブナの暴れ樹に会いに行ってきました。
昨年までは縦走路からその樹の方にはほんの微かな踏み跡しかなかったんですが、
しっかりとした踏み後が、分岐路の様に残っていました。
私だけが見つけた野や山に咲く花、山中で出会った樹木、そして大切な美しい自然の風景。
自分が素晴らしいと思った事を誰かに伝えたい。その良さを分ってもらいたい。
そんな思いが、結果として、大切な自然を傷つけてしまう事になる。大変悲しい事です。
これまで、このHPのトップページにリンクしていた『ふたたび天山にて』で取り上げているテーマです。
『憂』は、H.Oさんがくれたメールの主要部分を、まったはんが、
まったはんのフィルターを通して、多少の加筆やトリミングを行ったもので、
題名はまったはんが付けたものです。
憂
山歩きや森林の散策で、私達は自然から安らぎや潤い、落着きや平静等
今流行の言葉で言う「癒し」の恵みを沢山頂いています。
又、自然との触れ合いの中で、自然の素晴らしさや美しさに何度も心洗われる事があります。
所が、自然の中を私達が歩く事によって、踏み固められた登山道や轍は、
本来の植生を取り戻すことが極めて困難であり、
このような場所には移入種の侵入を容易にするという結果を招きます。
高山植物や湿原植物などの群落を形成する植物の多くは、
他種の侵入を防ぐために集団で集まって生活しています。
そこに轍や足跡をつけることで隙間ができ、
移入種が侵入すると本来の種が駆逐され群落の存続が危機に曝されます。
しかし、山や森は寛大な許容量を持ち、少々のインパクトは自己回復させる機能を持っています。
(だったら多少のインパクトは許される、という話ではありません。)
ここで問題になるのは、許容量を遥かに越えた人間によるインパクトで、
それは、一人一人の登山者やハイカーの意識と山や森に対する姿勢でかなり軽減できるはずです。
日本人は遥か昔から森を生活の場として、山を信仰の対象としてうまく付き合ってきた民族でした。
先人達の知恵や山に対する思いを学ぶことで子や孫、そのずっと先の世代まで
我々が今見ている自然を残し伝えることができると思います。
今、我々がやるべきことは、山や森に憂を感じることではないでしょうか。
考え方や自然に対する姿勢は人それぞれあって良いと思いますし、
またそれぞれに考えるべきものだと思います。
そんな考え方の一つだと思って頂ければ幸いです。
このページは まったはんへのダイレクトメールで投稿された文を引用したもので、
『ふたたび天山にて』のテーマに対する回答となる考え方の一つではないかと思い掲載しました
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